文芸日女道

ある研究者のカフェに来る人々の交流のお話(14)

Oさんを偲んで

先日、東京に行ってきた。私の手術の日程が決まったこともあり、順天堂医院の安全管理室のメンバーが水道橋の「味太助」という牛タンの店で、「激励会」の食事会を開いてくれた。

当日は私も含めて8人で食事をした。私はそんなに食べる方ではないものの、6O人前近くの牛タンを頼んでいたようだ。1O人前ずつ追加注文をするため、私たちが帰るころには一人で調理していた大将はげっそりしていた。

室長のK先生の提案によりカラオケで二次会もした。牛タンをたらふく食べたにもかかわらず、カラオケルームに着くや否や、先生方はピザ、フライドポテト、唐揚げ等を頼み始めた。先輩方の食欲を見ながら、「元気に働くには、パワーをつけないといけないのだな」と呆気にとられた。

K先生は帰りに「入澤先生の病状を最初に聞いた時は、もうだめかと思ったんだ。でもこうやって、抗がん剤治療を終えて、また元気な姿を見せてくれて本当に良かった。闘病が終わった後は僕たちが全力で応援するから、今は自分の体を治すことだけに集中してね」と優しく声をかけて下さった。

私は順天堂の博士課程に籍を置き、医療安全管理室と共同研究をしているが、順天堂に関わることがなければカフェを主催することはなかっただろう。カフェを通してたくさんの出会いがあったが、昨年は最初のお別れも経験することになった。それはすい臓がん患者のOさんとのお別れだった。

OさんはD先生の紹介で、一昨年の3月にカフェに初参加された。Oさんは抗がん剤治療を受けていたが、投薬の翌日でもカフェに来てくれていて、お花見カフェの時には桜の木の下で「来年もみんなで会いましょう」と話しながら写真を撮った。それからOさんは毎月皆勤で参加してくれた。

Oさんのすい臓がんは既に多臓器に転移をしていたが、彼女は末期がん患者と思えないほどお洒落で元気な人で、土日には着物の着付けの講師の活動も続けられていた。カフェでは主にツッコミ役で、Bさんと夫婦漫才のような息の合った掛け合いをして私たちを笑わせていた。癌に関心がある人が参加したときには、率先して自分の体験を語り、アドバイスをする人だった。

参加者の私たちはカフェの日にはOさんが明る<部屋に入ってくることを、当然のように感じていた。綺麗な柄が大好きで、毎回私が用意する紙ナプキンを楽しみに持ち帰っていたOさん。時にはカフェ終了時に、余ったおやつと、他の参加者に配布された別の柄の紙ナプキンを「それ、ちょうだい」と言いながら回収していた。

そんなOさんが、一昨年前の11月のカフェで「PET検査でリンパが光ったんです。精密検査はこれからだけど、多分転移だと思う」と告白された。そして翌月、「転移だったから、抗がん剤が変わるみたい。副作用が怖いんですけどね、まだ治療があるんだから頑張ります」と前向きに話された。

年末には常連さんを対象とした小さな手作り忘年会をラボで開催したが、そこにはOさんの姿がなかった。Oさんからは「抗がん剤の副作用が予想よりも重く、参加できません」というメールが入っていた。

Oさんの病状が心配であったが、年が明けた一月のカフェにはOさんが来てくれていて私たちは安心した。

「副作用がひどかったんですか」と聞くと、Oさんは「そうなの、本当に大変で、主治医にはもうこの抗がん剤は無理ですって言ったんです」と話され始めた。

Oさんは36時間投与し続けるタイプの抗がん剤に移行したが、ひどい貧血と神経障害が起きたそうである。抗がん剤が終わる前から、体温よりも低い温度のものを触ると電流が流れるような痛みが走り、寝ることも食事をすることも困難だったという。そして抗がん剤後に「お風呂には入りたい」と思い、一人では不安だったため、近所のお風呂仲間と共に銭湯にいったが、貧血から浴場でひどい眩量を起こし、そのまま緊急搬送となったそうだ。

話の上手いOさんは「お風呂仲間が脱衣場に運んでくれて救急車を呼んでくれたものの、私が全裸だから友達が『パンツ履く?』と聞いてくるの。『もちろん履く』と言ったものの、なかなか足が上がらなくて、数人掛かりで私にパンツを履かせてくれてね」と笑いも取っていたが、状況が深刻だったことは私たちも察した。そして「抗がん剤を続けられないから、民間治療を受けることに決めました。主治医にはそんな治療効かへんぞって言われたけどね」と続けた。Oさんはその月から民間の免疫治療を開始した。しかし癌が小さくなることはなく、腫瘍マーカー数値も上がった。熱が出ていても「ここが私の外出場所だから」と言って、翌月もカフェに現れた。

三月のカフェには来られなかったものの、D先生の講演には参加され、講演後には再会したカフェ仲間と阪神芦屋を散策されていた。

「先生、見て!抗がん剤を止めたからね、まつ毛が生えてきたんですよ」と目をキラキラさせて嬉しそうに話された。

しかし四月のお花見カフェには「体調がすぐれず、食べられません」と来られなかった。その後も「またカフェに行きたい一というメールはもらったものの、一緒に桜を見ることはできなかった。それでも私たちの中には元気なOさんの姿があるため、呑気に「来年はOさんも一緒に桜を見れますように」などと話していた。

六月に私の癌が見つかりカフェは無期限休止にすることになり、Oさんと会う機会が無くなってしまった。そして八月の二回目の抗がん剤が終わった後に、D先生から私の携帯に連絡があり、Oさんが亡くなったことを知った。

すぐに秘書さんと相談した。参加者が他の参加者のことを知りたいはずと思って訃報を流すことは主催者のエゴではないか、とも悩んだ。しかし、考えても結論が出る話ではなく、感じ方は人それぞれなので、Oさんに馴染みのあるカフェの常連さんにはOさんの他界を知らせた。Bさんからは「愉快な思い出ばかりが心に残ります、Oさんのことを忘れません」と、Cさんからは「ほんとに悲しいです。三月に芦屋駅周辺ぶらぶらしてから、二度と会えなくなるなんて思いもしませんでした。とても美しい人でしたね」等、Oさんを思慕するメールが届いた。Mさんからは「お盆をOさんを想いながら過ごした」と連絡が来た。

もうOさんと桜を見ることはできない。でも私たちは桜を見たら、Oさんを思い出すと思う。今年の4月にはカフェを再開したい。

空に向かって「必ず元気になってカフェに戻ります、これからのカフェを見守っていて下さい」と叫んだら、「先生、次のお菓子は何?」と明るいOさんの声が返って来る気がする。

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