縮小社会 第7号 入澤仁美医学博士追悼記念号

入澤仁美先生を偲ぶ

柘植 あづみ
(明治学院大学)

実は、私は入澤仁美さんに直接にお目にかかったことはない。知り合ったのがコロナ禍の2020年の晩秋だったため、ZOOMとメール、ショートメール、電話でしか交流できなかった。それも、知り合ってから逝去される2022年1月までの1年あまりの交流だった。

その短い期間に、互いの研究に関する議論、第三者が関わる生殖補助医療に関する国や医学界の対応についての意見交換、患者ピア・グループへのサポート、そして病気や治療のことなと、深い話しをする機会を得た。その成果として、入澤さんへのインタビュー動画を製作して公開し、2020年冬に成立した生殖補助医療および民法特例法案に対する専門家としての意見を、超党派の国会議員連盟(以下、議連と省略)の会合で共同して披瀝し、論文の共同執筆をした。逆に、あれがわすか1年間に起きたことだったとは、信じられないくらいだ。

初めて拝見したのは、日本生命倫理学会の第32回大会(2020年12月)でのオンライン発表だった。入澤さんは「生殖補助医療を利用した多様な家族形成においての倫理的課題の検討 ―医療者、レシピエント、ドナーの声を通じて―」というワークショップの報告者のお一人だった。そのご発表は、SNSによる精子提供者へのインタビュー調査についてだった。私の研究テーマに近く、興昧をもって聴いた。発表の内容だけではなく、きれいに整えられた巻き毛と、よく響く高い声の苦い女性研究者が、SNSによる精子提供者へのインタビューを実施しているということの大胆さに驚いた。彼女の病気のことは共通の知人から少しだけ聞いていた。また、整えられた巻き毛はかつらなのだと、後にご本人から知らされた。

日本生命倫理学会の大会後すぐに、私は2021年2月の議連の会合において精子提供に関するプレゼンテーションを依頼された。15分という短い時間だったため、その時間で話す内容を考えた。国会議員に知って欲しいことを考え、SNSによる精子提供者の存在とその問題について入澤さんに話してもらいたいと思い、連絡を取った。入澤さんからはぜひ話をしたいと、二つ返事で了解を得た。

議連の事務局に問い合わせると、持ち時間である15分を二人で分けるなら問題ないという返事だった。15分を有効に使うために、打合せをした。その時だったと思うが、彼女は私の2012年出版の著作を読んで、このテーマの調査研究を始めたこと、インタビューについては指導を受けたことがなく、手探りで実施してきたこと、そして、SNSで精子提供をしている人たちへのインタビューに対しては不安もあったが、実施したら、問題だけではなく、提供者の想いもわかるようになったことなどを話してくれた。相談の結果、議連では、私は精子提供に係る社会的課題と、精子提供で生まれた人たちが提供者について知りたいという思いを抱いていることについて述べ、入澤さんは、SNSで精子提供をしている人たちとその行為の課題を述べることになった。

このあとだったと思うが、調査結果の整理と、それを論文として刊行したいという相談を受けた。同時に、彼女の病気と病状、予後についても説明を受けた。あと、研究を続けられるのは3か月かも半年かもしれないと医師から言われたこと、自分としてはまだまだ研究を続けたいがあと1年続けられるかどうかだと思っているということを淡々と話された。とにかく、限られた期間のうちに、インタビューのデータをきちんとした形にして公表したいという希望が強かった。聴いている私は、彼女のあまりにも冷静な語り口から、すぐには現実のこととは受け入れられなかったが、「もし私が論文にする前に、書き続けることができなくなったら、柘植先生にデータをお預けしたい」といわれたので、それはきっぱりとお断りした。調査倫理の観点からだけではなく、インタビューに協力した方たちは入澤さんとの関係からいろいろと話してくださったわけなので、それを私が分析することはできないと伝えた。

もし、入澤さんが話した期限が現実なら、病状と治療の状況を鑑みて、ご本人がデータ整理・分析をして、論文を書くには、もうぎりぎりだと思った。同種類かの学術誌の投稿締め切りの期日を確認し、査読付きの論文の場合には、執筆して投稿し、査読期間を得て筆者が修正して再投稿するのが一般的である。それで半年を経ることもある。長ければ1年以上かかることもある。それらを考慮し、3月に投稿期限が設定されている国際ジェンダー学会のジャーナルに「資料報告」として投稿することを提案した。

「資料報告」には査読はないが編集委員による閲読はあり、修正提案がもらえる。それも、良い論文にするのは大事なことだと判断した。

この時点で、投稿期限までほぼ1か月しかなく、彼女の治療計画と体調を考えると、データ整理や論文の構成、考察のアドバイスを私がするにしても、かなり厳しいことは明白だった。なんとか3月中旬の投稿期限に間に合わせようと努力している際に、閲読を経て、5月以降に閲読後の修正、その後に掲載決定され、初校が夏から初秋、再校が秋から晩秋の計画、12月までに刊行というスケジュールになることを踏まえて、入澤さんからお願いをされた。閲読後の論文の修正やその後の校正まで体調がもたないかもしれない、知的な活動ができるのかわからない、だから、私との共著にしてほしいという依頼だった。やはり、病状はそこまで深刻だったのかと驚き、衝撃を受けた。

入澤さんが行ってきた調査のデータを基にした論文に、私が共著者として名を連ねることには抵抗があった。私は年齢的にも、研究経験からも、入澤さんの指導者的な立場になることは承諾していたが、共著者になるとは思っていなかった。たしかに、ご本人が途中で執筆を継続できなくなったり、校正できなくなれば、ジャーナルに掲載されないだろう。

考えた末に、データ整理、結果、考察は、できる限り入澤さんと私が議論をしながら作成することを条件に、共著者になった。私には現実昧はなかったが、いざというときには、論文修正や校正を私一人が行うことも受け入れた。

「資料報告」の原稿執筆という短期プロジェクトが開始した。頻繁なメールのやりとり、たびたびのZOOMミーティング、彼女の体調が悪くて座ってパソコンに向かえないときは、メールかスマホのショートメール、さらには電話で打合せや論文の修正をした。手書きの詳細な表をスマホで写真に撮って、メール添付で送ってきたこともあり、私がそれを基に表を作成したこともあった。

彼女の論文執筆にかける情熱と能力は素晴らしかった。彼女が送ってきた論文の下書きに対して、私の方で修正が必要な点を指摘し、コメントを深夜に返信する。翌朝には、指示に沿ってきっちりと修正されたものが戻ってきた。もちろん議論もした。昼夜逆転しているからできるのだとご本人は説明していたが、それでもすごい力である。体調を悪化させるのではないかとこちらが気を遣うと、論文を発表できないのはいやだと言われ、私も気を引き締めた。「鬼」になるしかないとまで思った。

投稿後すぐに、私と共同研究者がオンラインセミナーを開催し、録画をして公開する研究プロジェクトを進めており、入澤さんにも出演を依頼してあった。了解はすぐにもらえたものの、実現するまでには、彼女の治療と体調のために、日程を2度ほど変更した。それが本誌にスライドが掲載されている「SNSによる精子提供から考える日本のAIDの今後の課題」(講師:入澤仁美さん)(https://www.youtube.com/watch?v=VB2BQ5KOKB8&t=68s)である。
閲読結果が戻ってきて、その修正をした。その途中で、治療のために2週間ほど連絡がとれなくなったときもあったが、閲読後の論文修正はご自分でもされ、夏のおわりごろだったか初校が戻ってきた。病状が悪化していることは、オンライン画面でも、そして医療者ではない私にもわかった。それでも彼女は、できる範囲を自分でやろうと、ものすごい力を発揮した。彼女はこの年の日本生命倫理学会の大会でも「「出自を知る権利」をめぐるELSI(倫理的・法的・社会的課題)―DCを利用した当事者、出生児、医療者が望む情報の観点からの検討―」のオーガナイザーをしていた。治療の影響で言葉を明瞭に発せられなかったと悔んでいたが、確かに少しゆっくりと話していたが、ZOOMで聴いているほとんどの人には気にならなかった程度だと思う。それでも、完璧にこなしてきた彼女には不本意だったのだろう。

11月の再校は、本当に残念だったが、とうとう彼女は校正をしたくてもできない状態だったため、ほとんど私一人で行った。やっと12月に出版されて、雑誌と抜き刷りが彼女のもとに届き、彼女からスマホのショートメールが届いた。その頃にはもう、パソコンに向かう力がないから寝ていても入力できるスマホのショートメールでメッセージ交換をしていた。

年が明け、彼女からのメッセージを待ったが来なかった。治療中なら余計なメッセージを送ってはという遠慮の気持ちと、もしかしてもう返信が来ないのではないかという怖れから、メッセージを送れなかった。

2022年1月中旬、知人から彼女の訃報が届いた。その後、お母様と電話で話すことができ、入澤さんの最期の様子をうかがった。彼女と私は、年齢は大きく離れているが、誕生日が4日違うだけだった。それで、星座が地味でまじめなんだよねという冗談を交わしたことがあった。その誕生月に、他人の何倍もの濃厚な時間を生きて、逝った。

2022年12月、1年が経つ前に、彼女のホームページが完成したとお母様から連絡をいただいた。開いたら、おだやかに微笑む彼女がそこにいて、ほっとした。

論文執筆中に、入澤さんが、めずらしく弱音をはいたことがあった。先生(私のこと)ともっと早くに知り合いたかった、もっと研究を続けたかった、そして、研究以外のことももっともっとしたかった、と嘆いたのである。26歳年長の私には、かける言葉がなかった。そうだね、本当にそうだね、と頷くしかなかった。

この1年間、私は大学の役職、学会の役職、その他さまざまな委員をしながらも、書籍刊行、英語論文発表、数種類の調査、その他の日本語論文等の発表を追い立てられるようにしてきた。それは、彼女の悔しさにあのとき触れたからかもしれない、と今になって思う。そして、彼女が1年間、見守っていてくれたのかもしれないとも思う。

ありがとう。ご冥福をお祈りします。

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