縮小社会 第7号 入澤仁美医学博士追悼記念号

入澤仁美博士の願い — 愛を生きる人々が生む愛の科学 —

縮小社会研究会
川崎 尊康

要約

これは自分の置かれた過酷な状況に怯むことなく、最後まで人々への優しさを忘れず、研究者としての姿勢を貫いて逝った入澤仁美さんの精神を可視化しようとする試みである。また、志を以って取り組んだ学問や研究の他に、入澤さんがベリーダンスで表現しようとした「愛を生きる」ことを、普遍的な哲学に位置づけようとするものである。

はじめに

本稿には奇異な造語や難解な表現が随所にあり、読み進める読者の熱意を削ぐかもしれない。しかしそれは、入澤さんの精神と、その先に見えてくる「戦争のない世界」を模索する筆者にとって、挑まざるを得ない賭けのようなものである。

奇異であっても、新世界を目指すために、或いは人類の思考原理を変更するために必要な概念を、好意的で辛抱強く好奇心旺盛な読者と共有できるか、途中で投げ出され意味をなさない文言の羅列が残るかである。

もし読者の思考原理が適正に変更されれば、今奇異で非常識に感じられる文言は、悉く有益な常識に変貌するはずである。蛇足ながら、これは宗教ではなく、純粋な哲学、或いは科学であることを明言しておきたい。

First
(The important opening part of ‘First’)

There are many bizarre coined words and difficult expressions in this paper, which may discourage the reader's enthusiasm. However, it is a gamble that I have no choice but to challenge for Dr. Irizawa's spirit and for the author, who is searching for "A world without war" that will be visible in the future.

Were you able to share with a benevolent, patient, and curious reader the concepts, even strange, necessary to build a new world or change the principles of human thought? The question is whether there will be a list of phrases that make no sense remains.

If the reader's thinking principles are properly changed, the words that seem strange and absurd now must be transformed into useful common sense. On a side note, I would like to make it clear that this is pure philosophy or science, not religion.

絶対の真理と愛について

以下に示す二編の詩は、3年前に「愛」について書いた作品と、同じ詩を現在の意識で書き直したものである。

愛の姿
愛は感じるものとして在る
愛は信じることによって現れ、
愛の行為は信じることによってなされる
愛は刹那に現れ刹那に去る
愛はそのように在る
また愛は永遠の今に在って真理に導く
故に愛に生きる時愛は命となる

以下は、「愛を生きる」視点で「愛」を捉えたものである。

愛を生きる者
愛は愛を生きる者に顕現する
愛は人がそれを生きるものとして在る
愛の行為は愛の思考によってなされ、
愛の衝動は愛の思考を超越する
愛を生きる時人は絶対の真理である
それ故愛は古(いにしえ)より人が生きる根拠である

『愛の姿』では「愛」は思考の対象であるが、『愛を生きる者』では「愛」は「愛を生きる者」自身である。それは、人が「愛を生きる」ことによって概念であった「愛」が命を得て「動的真理」になったということである。

私はかつてデッサンとクロッキーを描き続ける時期があったのだが、以下はクロッキーをしている意識を記述したものである。

— 無数にある部分を厳密に描き出すことによって、その集合である石膏の全体像を目に見えたまま再現する石膏デッサンに対し、クロッキーは視覚が捉えているモデルを、感性が受けとめた「生命の場の気迫」に描かせる。

私は、「生命の場」から放たれる気迫が、そのまま鉛筆に伝わるように意識を集中した。すると鉛筆は、モデルの輪郭を辿ろうとする私の視線を追い越し、何かに驚いて反射的に駆け出した動物のようにモデルの姿を描き切った。—

生きたモデルは、石膏像のように固定された物体を写し取るように描くことはできない。そこで、分析的に描写しようとする「思考」は、モデルを一気に捉えようとする「純粋意識⁵」に変わる。上の記述は、クロッキーをする「思考」が「純粋意識」に変わる瞬間を捉えたものである。

動的真理と音楽について

入澤さんがベリーダンスを通して、人々に「愛」を伝えようとしていたことは間違いないと思う。ダンスに限らず、あらゆる身体表現は「純粋意識」の探求であり、「愛の本質」を人々と共有しようとする衝動を根源に持っている。

私はコンサートで歌うことがあるため、身体を使った芸術の表現が如何なるものか大体の察しはつく。私の推量が的を射るか分からないが、老成学や生命倫理の研究に明け暮れていた入澤さんにとってダンスが如何なる意味を持っていたのか、興味を引くところである。「動的真理」に普遍的な意味を与えるためにも、私自身の音楽体験から類推することにする。

歌っている私は通常とは異なる「場」を生きている。例えば、「オー・ソレ・ミオ!」を高らかに歌えばオレンジ香るナポリの明るい空気を感じるし、「黒い瞳」なら、ロシアの草原に燃える青い情熱の炎が見える。だが、「通常とは異なる場」は他にもある。

楽曲の演奏は、前奏が始まればもう後戻りはできない。後奏の響きが消え、その場を一瞬の静寂が支配するまでの一部始終は、音楽が創造する、明らかに通常とは異なる「時間芸術の場」である。

音楽は楽譜に表記できるため、Aという曲の楽譜は演奏されなくてもAを示す紙片(A の概念)である。しかし10人の演奏者がAを演奏すれば、10通りのニュアンスを持つA′が生まれる。それは、演奏者が楽譜という「A の概念を生きる」ことによって、AをA′として実在させたということである。

また同じ演奏者でも、その日の気分でA′に与えるニュアンスが変わる。即ち、楽曲Aは演奏者によって無限のA″になり得るとい
うことである。ベリーダンスにも同じことが言えるだろう。

また合奏では演奏者間で楽曲のイメージが一致していることは必然で、各音符及び、音符間の無数の刹那を音階で捉えていることが、一瞬の呼吸を通して常に共有されていることが、流れるように美しいアンサンブルの条件と言える。

それは演奏者の呼吸が楽曲に命を与えると同時に、楽曲が演奏者の呼吸を決めるということである。即ち全ての共演者が楽曲と一つになり、音楽という「動的真理」の場を共有することが、音楽を洗練させることと言えるだろう。

だが、「音楽の洗練」には物理学や数学が導き出す「結論」に相当する「到達点」はない。物理学や数学では与えられた命題を解くために、正しい理論を構築し、それを必要な定理や公式によって適切に展開すれば必然的に唯一の「解」に到達する。では何故文明に芸術が存在するのか。

芸術と文明について

その問いに答えるために、先ず芸術を次のように定義したい。

— 芸術は人間の生きようとするエネルギーが、愛によって具現化したものである。—

この定義が正しければ、人間が芸術を探究するわけと文明に芸術が存在する意味が説明できる。即ち芸術は人間に生きる力を与え、文明が向かうべき方向を示すために在る、と。また、愛を人類が種として繫栄すべき根拠と考えるならば、芸術を洗練させようとする人間の情動は人類の種としての繁栄を促すエネルギーと言える。

それ故、洗練された芸術は愛の証しであると同時に、人類が種として繁栄すべき根拠と言える。地球上のあらゆる地域に見られる多様な文化を芸術の範疇に入れるなら、それらの異なる文化は其々の個性を保ちながら、「人類が種として繁栄すべき根拠」として存在していることになる。重要なことは、そこに「命の調和」が息づいていることである。

音楽は音階とリズムが生む調和であり、音楽の演奏は創造された譜面上の調和に命を与えることである。即ち音楽の演奏は、演奏者が「音楽という調和」を生きることと言える。それは音楽が人間によって「動的真理」になることを意味する。

我々は、「思考」を超えて「愛を生きる」ことによって、世界を「動的真理」に導くことができる。それは譜面に記された「愛の音符」を読むのではなく、「愛の音楽」を奏でることである。人が愛を生きて「愛を奏でる」歓びは人々の間に「愛の連鎖」をもたらす。私は、入澤さんがそのような意識でベリーダンスを踊っていたのではないかと思っている。上記の「音楽」を「ダンス」に置き換えると以下のようになる。

— 振付けに従い、振付け通りに手足を動かすのではなく、愛を感じて「愛のダンス」を踊ること。人が愛を生きて全身で「愛を表現する」ダンスの歓びは人々の間に「愛の連鎖」をもたらす。—

では人は何故「美」を感じることができるのか。何故「調和」を生み出すことができるのか。もし我々の命そのものに「指向性」があるとすれば、その理由は容易に説明できる。

即ち、我々は目指すべき到達点が与えられた船であり、「美」や「調和」はその方位を示す「天空の星座(絶対の真理)」を形作っている星の一つである。他にも「善」や「自由」と言った星々が「絶対の真理」を構成している。そして我々の「心」は「愛を生きる」ことによって、「絶対の真理(天空の星座)」を示す「美」や「調和」を映し出すのである。

1 入澤さんとの出会い

私が入澤さんに出会ったのは2017年10月、元田武彦さんの紹介で縮小社会研究会の例会に初めて出席した折であった。彼女は差し入れの菓子包みを携え、私より10分ほど遅れてやってきた。そして参会者に落ち着いた様子で「こんにちは!」と挨拶すると、研究室は明るい活気に包まれた。

その後私は元田さんと入澤さんに勧められ、随筆とも論考ともつかない文章を書いたのだが、二人はその校正に心を砕いてくれた。後に元田さんから聞いた話によると、初めて私の乱文を読んだ入澤さんは「発狂しそうになった」そうである。私は彼女の心労に感謝しながらも苦笑せずにはおれなかった。

また、その翌年台湾の高雄で開かれた生命倫理学会での発表を勧めてくれた二人の意向に従い、私はそれを実行した。入澤さんも同学会で自分の発表があり、三人で学会に出席することになった。台北でも高雄でも観光に余念のない私と元田さんを尻目に、入澤さんは直接向かった高雄のホテルに籠って発表の準備に没頭していた。

なんとか発表を終え、慰労の晩餐会では多くの学者や研究者と懇談したが、私の発表のためにいろいろな形で骨を折ってくれた入澤さんとは、アドバイスを受けるばかりで、思っていたような会話はできなかった。

「縮小社会第3号」から始まった私の投稿はその後、第5号、第6号と続いたが、第5号に投稿する原稿に目を通してくれた入澤さんは、「私が川崎さんの文章にして差し上げることはもう何もありません」と言われた。私はその言葉で、辞退しようと考えていた第6号冊子への投稿を決意したのである。

2020年、入澤さんは乳癌を克服し、縮小社会研究会の有志はお祝いの席を設けた。彼女の地元である芦屋で開かれた快復を祝う会は、彼女を励ます温かな言葉で溢れた。彼女はそれに屈託のない笑顔で応え、私達はその笑顔で胸が一杯になった。特に元田さんの安堵は大きかったかと思う。元田さんは入澤さんが癌に罹患したことを私に告げられた時、「私の命をあげたい」と呟かれたのである。

ところが、入澤さんの担当医はその後の本人の愁訴に耳を貸さず、癌の転移はあり得ないとして再検査の必要を認めなかった。この判断ミスによって、再発していた入澤さんの癌は致命的な転移に発展したのだが、そこには我々の誰もが想像しなかった癌進行の主因が働いていた。

自分の置かれた過酷な状況を知っても入澤さんは怯むことなく研究を続けた。それは、全身に起こる激痛のため、意識が途絶え、手が動かなくなるまで続いた。ある日縮小社会研究会のウェブ会議に出席した入澤さんは、研究報告に加え、自らの病状説明をした上で、「次回皆さんにお会いする時は白骨になっているかもしれません」と言ってのけ、笑みさえ浮かべていた。

やがて彼女の命がけの研究はその成果が認められ、2021年3月、医学博士号を授与された。そしてその10ヶ月後、2022年1月15日、準備を整えて楽しみにしていた順天堂大学での講義を目前にして、入澤さんは37 歳の若さでこの世を去った。

入澤さんが残した様々な業績や功績を称え、その研究を振り返ることは他の執筆者に譲り、私は絶望的な状況の中でも彼女を突き動かした情熱と、それに従った入澤さんの意志に思いを馳せたいと思う。

2 思考と純粋意識

入澤さんが豊かな感性の持ち主であったことは言うまでもない。

特に命に対する感受性は際立っていたと思う。私は二度目の研究会に出席する際、自宅付近の山道で野の花を摘んで行った。それを研究室にあった小瓶に活けて窓際に置いたのだが、後日元田さんから次のようなことを告げられて驚いた。

入澤さんは幼いころから殺生に罪悪感を覚える子供だったらしい。

動物は勿論、植物や昆虫であっても同じで、野の花が手折られても悲しい気持ちになったという。入澤さんが活け花をすることはなく、活けられた花を見るのも好きではないということであった。

さらに数日が過ぎたころ、元田さんは電話で「花を摘むときはどのような心境ですか。それは慈悲と関係しますか」と尋ねられた。私は咄嗟に、「慈悲は違うと思います。私はただ花に許しを請うだけです」と答えた。数日後私は元田さんに以下のようなことを述べた。

  • 人間は、誰もが自分が生きるために他の生き物を犠牲にしており、「殺生」と無縁の人はいない。
  • 食べ物が身体のためにあるなら、活け花(芸術)は精神のためにある。芸術作品は精神の食べ物である。
  • 美と調和を感じさせる花のコンポジションは、閉塞的な思考に自然の息吹を吹き込み精神を賦活させる。

私は話しながら、これらの理屈が自己満足に過ぎないことに気づいた。そして、自分の理屈が「戯言たわごと」だと気づかせてくれた入澤さんの真意を見極めたいと思った。

キーワードは「殺生」である。人間が「殺生」を正当化する理屈はいくらでもあるが、一元論の境地で生きる者に理屈は一切通用しない。私は入澤さんが「一元論で生きる意味」を伝えたいのではないかと思った。

一元論の境地では「殺生」は「自らを殺すこと」である。人は一元論の境地に立つ時、自らが持つ「命に対する愛と慈しみの心」に気づく。「思考」は対象、若しくは対象と自分の関係性に捕捉されるため、対象と一つになることができない。では「一元論の境地」と「思考」にはどのような関係があるのか。

「一元論の境地と思考」は、「一元論の意識と二元論の思考」と言い換えることができる。更に言い直すと「純粋意識と思考」になる。

入澤さんの本懐に迫るため、「純粋意識」と「思考」について考えてみたいと思う。

「純粋意識」とは、対象と一つになろうとする衝動のことである。その衝動は純粋意識が元々一つであった証左と言えよう。我々の「意識」は元々一つであった純粋意識から個々に分化し、「思考」が加わって生まれたと考えられる。しかし、純粋意識には「思考」の働きがなく、与えられた概念によって対象を認識することができない。

また対象と一つになろうとする衝動は、純粋意識が一定の「指向性」を具えていることを意味しているが、純粋意識は「無」であるため、その指向性は「無」と整合しなければならない。「無」と整合する概念⁶は「愛」以外には考えられないため、純粋意識が具えている「指向性」は「愛のエネルギー」と思われる。従って、「純粋意識」が対象と一つになろうとする衝動は「愛の衝動」と言える。

「純粋意識」に対し、「思考」自体には指向性も主体性もない。「思考」の本質は意志(指向性)を持たない霊的エネルギーと考えられる。「思考」は一定の枠組みが持つ指向性を思考原理に換えて思考主体になる。また、「思考」は社会の枠組みを維持している「常識」によって評価される。

我々は社会の指向性に従い、正しく思考することによって、社会の枠組みから外れずに生きることができる。しかし我々は、その「指向性」の機序を理解することによって、より優れた思考原理で新たな社会を築くこともできる。

「思考」は「愛」を「愛の概念」で捉えるため、「愛そのもの」を理解することができない。「無」、「善」、「自由」、「美」、「調和」などの抽象概念にも同じことが言える。また具体的な事物にも同様のことが言える。「思考」は対象と一つになることができないため、あらゆる対象をその概念で認識するためである。

翻って言うなら、「対象の本質」を捉えようとする時「思考」は純粋意識に変わる。それが無意識に対象と一つになろうとする「愛の衝動」である。

「枠組み」を超越する「愛の衝動」は新たな構造を創造するエネルギーであり、「真の自由」を探求する人間の「生命力」と言える。人間の本質である「愛」は、「思考」を滅却した結果、「枠組みの中」に在ってなお何ら枠組みの影響を受けない「無」に至るが、「無」とは「愛そのものとなった意識」、即ち純粋意識である。

また「解脱」は、「思考」から解放され、真に自由になった意識がいかなる枠組みにも忖度することなく、いつでも愛の衝動に従う境地に入ることである。それは、「命の連環」を自身に見出す「愛の意識」と言える。

「命の連環」は現在だけではなく、無限の時間軸を超えて繋がる命の広がりを意味している。「命の連環」は過去に生きた命も未来に生まれる命も包摂する、無限に連鎖する命の本質のことである。即ち、「愛の意識」に目覚めた者は、「愛を生きる」ことによって、自身の思考に「愛の原理性」を与え、未来の社会を「愛の思考」で築くことができるということである。

3 入澤さんの苦悩

入澤さんの際立った資質に主体性を挙げることができる。彼女のきっぱりした口調と溌剌とした態度はその表れであった。「愛を生きた」入澤さんの主体性は、「真の主体性」というべきであろう。生死の狭間を彷徨いながらも最後まで家族と人々への気遣いを忘れず、自分の研究と向き合い、学問への情熱を燃やし続けた彼女の生きざまがそれを証明している。

私は入澤さんの研究を深く知るわけではないが、入澤さんが老成学や生命倫理の研究を通して「生命の本質」を探究していたことは分かる。愛を生きていた入澤さんは、末期癌患者の苦悩も自分の苦しみとして受けとめていたであろう。それは自身が「命の連環」によって在ることを悟った者の宿命的な優しさだった。

残念なことに、入澤さんの周りにはそのような彼女の生き方を深く理解できないために、彼女を曲解した人がいたようだ。所有欲、支配欲、独占欲は人間を愚行に走らせる動機である。そのような動機を持つ者が「欲望」や「嫉妬」に支配されることは容易に想像できる。

人は時に、欲望を満たし、嫉妬を晴らすために自らの愛を欺き、「真の主体性」を捨てる。それは東西の文学や舞台、映像芸術にもしばしば登場する修羅場、或いは地獄絵とも言うべき描写によって提示される人間心理の普遍的テーマである。

歪んだ欲望や嫉妬の炎は自らを呪縛する妄想によって燃え上がり、対象の人格をも自分勝手に歪めてしまう。そのような妄想に駆られ、自己中心的な行為に及んだ者に入澤さんの苦悩がいかほどであったか知る術もないだろう。

入澤さんは自分を指導する立場の人物から度重なる性的ハラスメントを受けたが、同氏の社会的尊厳を守るために当局への報告を控えていた。しかし、それが災いし同氏の秘書と称する女性から暴力的ハラスメントを受けることとなった。

更に同氏は、まじめで何の落ち度もない一途な研究者を破門し、同氏の下で進めていた研究の発表を禁じた。その信じがたい仕打ちの理由も知らされず、入澤さんは人間不信に陥り耐えがたいストレスに苦しみながらも、続けてきた研究に命を捧げついに帰らぬ人となったのである。

私は遺族の述懐を聴いて、彼女が最後まで純粋意識を失わなかったと確信した。生気に溢れていた入澤さんを一年に及ぶ鬱状態と人間不信に追い遣り、死に至る病を発症させた彼らの蛮行は法の裁きを受けるべき犯罪行為であるが、それを知った家族に対し、入澤さんは「私は研究を続ける環境を返してもらいたいだけ」と答えたという。

それは格言、「罪を憎んで人を憎まず」を絵に描いたような高貴な精神の表れと言えるだろう。だがそこには純粋意識が避けて通ることのできない矛盾と葛藤があった。「命の連環」に立脚点を持つ意識にとって、全ての人は愛すべき家族である。それは、民族や国籍、イデオロギー、貧富、善悪、優劣、ジェンダーなど、凡そ「思考」が生むあらゆる「区別、区分」を超越する純粋意識であり、「愛の意識」である。

入澤さんが自分を応援してくれる先達や協力者に対し、全身全霊で応えようとする誠実な人であったことは衆目の一致するところであろう。また、人に分け隔てをすることのない入澤さんは人を疑わなかった。「懐疑」や「疑惑」、「疑念」は思考が一定の理論展開、即ち「推理」のために用いる概念であるが、純粋意識は信じることが常態でありそこに懐疑が生まれることはない。

「愛を生きる人々が生む愛の科学」、それは今も私の胸に届く入澤さんの願いである。もし、先に述べた二人の心にもその願いが届いていたら事情は変わっていたであろう。欲望が満たされない時、人は嫉妬や憎悪をその対象に向けることがある。そして妄想によって人は主体性を失い、欲望の奴隷になる。

4 欲望を超越する絶対の真理

それは、欲望が理性の制御を超えるエネルギーであることを示している。欲望を「変質した生命のエネルギー」と捉えるなら、我々は生命エネルギーが「欲望」に変わる原因を解明し、その抑止の方法を確立しなければならない。何故なら、個人の犯罪から環境破壊、戦争に至るまで、原因を辿ればそこには間違いなく人間の「欲望」があるからである。

「欲望」が及ぼす害悪はそれだけではない。「欲望」は人間から「真の自由」を奪う。「欲望の充足」を求めて生きることは一見自由奔放な生き方に見える。だがそれは、利己的思考、即ち「欲望の思考」に身を任せた「無法地帯の自由」を自由と履き違えた自己満足に過ぎない。「真の自由」とは、生きる根拠が自分自身である「真の主体性」を生きることである。

では生命エネルギーは何故変質するのか。その原因を究明するためには、先ず正常な生命エネルギーについて考える必要がある。「正常」とは「本来性」のことであるが、生命エネルギーの本来性は当然「生きようとする性質」であり、「正常な生命エネルギー」は「生きようとするエネルギー」と言える。

従って、「欲望」は「生きようとするエネルギー」が何らかの理由で変質したエネルギーと見做せる。では「生きようとするエネルギー」が変質する原因は何か。「生きようとするエネルギー」は「生きる根拠」と何らかの相関関係にあると思われる。

それは、「生きようとするエネルギー」が生きる根拠によって変化し、「欲望のエネルギー」にもなり得るということである。「生きる根拠」が何であるかは人によって様々であろう。また、人が生きる意味を何に見出すかは予測できない。

しかし「生きる根拠」を大きく二つに分けることはできる。例えば、神を信じて生きる者には「神の教え」が生きる根拠である。自分の家を建てようとしている者にとって、その目標を達成することは当面の生きる根拠となる。或いは、科学者が普遍的な真理に到達する歓びもまた生きる根拠と言える。言うまでもないが、根拠を以って生きることは人が主体的に生きる条件である。しかしこれらの「根拠」とは明らかに違う「生きる根拠」がある。

前例の「生きる根拠」が自分の外にあるのに対し、それは自身の内にあると言える。即ち日々の仕事が何であれ、「生きる根拠を自分自身に問い続けて生きること」が「生きる根拠」となっている場合である。だが厳密には、それは未だ「生きる根拠」ではない。何故なら「生きる根拠」となるのは「問」ではなく、あくまでその「解」だからである。

では、「生きる根拠」を自分自身に問い続けて生きればいつかその「解」に到達するのか。残念ながらその「解」を得ることは永久にできない。何故なら「解」を得るために発するその「問」が唯一絶対の「解」を逃すからである。即ち、生きる根拠はそれを自身に問うのではなく自分がそれを生きることによって得られるということである。

では「生きる根拠を生きる」とは如何なることか。それは自分が「絶対の真理」を生きるということである。即ち、「絶対の真理」は人間がそれを生きることによってその人間に顕現する真理であり、人間が真に主体的に生きるための唯一絶対の根拠だということである。「愛」、「自由」、「調和」、「美」などの概念は「絶対の真理」の属性であり、「絶対の真理」同様「動的真理」である。

「動的真理」とは、それを生きることによって、普遍的真理を探究し続ける人間に合わせて変化する、その可変性によって保たれる真理である。即ち、「絶対の真理」は、「絶対の真理」を生きる者が、現実の社会でその意味を、自身に問い続けることが必然となる真理と言えよう。

従って、「絶対の真理を生きる」ことは必ずしも社会の常識と一致するわけではなく、「絶対の真理を生きる」意味も社会の常識を根拠とする思考では説明できない。我々はそのジレンマを多くの哲学者や芸術家、或いは科学者が残した言葉から読み取ることができる。

オランダの画家、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホはその典型と言えるだろう。

しかし、敢えて言うと「絶対の真理」に起こる変化は、死ぬまで心と思考の変化の中で生きる人間に対応しており、寧ろ「絶対の真理」の不変性を示している。

従って「絶対の真理」を生きることは、人間が真に主体的に生きるための「唯一絶対の根拠」であることに変わりはなく、「生きようとするエネルギー」はその本来性を保ち、「欲望」に変わることはない。

「絶対の真理」を生きる時、人は「欲望」から解放されて一元論の世界に入る。それは「愛を生きる」歓びが連鎖する親愛の世界である。我々は「愛を生きる」ことによって、自身が「命の連環」に在ることを知り、「愛」が人間が生きる永遠の根拠であることを悟る。

5 「愛を生きる」ということ

「愛を生きる」ことによって他者の「生きようとするエネルギー」をも高める実在となった者は、「全ての人々が愛を生きること」を願う。

我々は、家族への愛情を形にするために豊かな暮らしを求めて労働に励み、友への友情の証しとして、また人々への感謝の気持ちを込めて花束や金銭を贈る。それは「愛に根差す行為」であり、贈られた事物には贈る者の愛が込められているだろう。我々は周囲の人々に「愛」を贈るために「愛」を事物に換えて暮らしているのである。

それは周囲に歓びをもたらす「愛の行為」と言える。

しかし、「愛を生きる」ことには「愛の行為」とは別の意味がある。

「愛の行為」には対象(客体)があるが、「愛を生きる」ことに対象はない。「愛を生きる」者には「主客の区別」も「目的」もない。また「愛を生きている意識」もない。「愛を生きる」者はただただ一人で「愛を生きている」ため、「愛の概念」もなく、自身が「無」であることにも気付かない。それは平和が常態であるため、「平和」という言葉が無用になった世界のようである。

その意識が世界を包摂し、世界と一つになっているため、「愛を生きる」者には、自分と他者を隔てる壁がない。私が「愛を生きる」必要性を強く感じるのは、種としての人類がそれを求めているためである。それは、純粋意識の欲求であり、人間の霊的本能と言える。

「愛を生きる」者は、「欲望の世界⁷」に代わって「愛の世界」が現実になることを祈りながら周囲の人達のために「愛の行為」を実践する。「愛を生きる」者の主体は自分であって自分ではない。それは「他者を生きる自分」であり、「自分を包摂している他者」でもある。

また、「愛を生きる」者の「愛の行為」の対象は「全ての人類」の象徴として在る。

しかし、未だ「愛を生きる」ことを知らない者の「愛の行為」はそれ以上でもそれ以下でもない。我々が今なお戦火を繰り返す稚拙な文明に甘んじているのは、「愛を生きる」ことを知らないため、「愛の行為」を超えて行けないからである。「愛を生きる」者の前には如何なる壁もないため、愛の意識は何処までも広がり、人類は「愛」で一つになる。

だが、「愛を生きる」ことを知らなければ、「愛の行為」は対象を限定し、「愛の意識」は対象を超えて世界を包摂することはできない。

それは「欲望を生きる者達」が理想とする「分断された世界」である。「欲望を生きる者達」にとって、人類が愛に目覚めて一つになることは自分達の終焉を意味している。

未来の人類のためにも、我々は生きる根拠を「絶対の真理」である自分自身に定め、「欲望の呪縛」を解いて「愛を生きる」厳しさとその歓びを知らなければならない。

「愛を生きる人々が生む愛の科学」、それは、愛が科学の礎となることを意味し、入澤さんの願いであると同時に「人類の悲願」と言える。この拙文は、天空の輝く星となった入澤さんの願いを私の言葉に代えて伝えようとするものである。これを以って、命がけで愛を生きた彼女の御霊に捧げる、感謝と敬意に代えたいと思う。

参照
1 新世界
人類の意識が現在よりも高い次元にある文明。 川崎尊康
2 絶対の真理
「人間は神である」、若しくは「神とは人間のことである」と説く宗教を、私は知らない。しかし「永遠の真理」と仰いで人間が神と対峙する「構造」が既に破綻していることは分かる。何故なら人間が対峙できるのは「真理そのもの」ではなく、「真理の概念(偶像)」だからである。もし「偶像」に意味があるとすれば、それは人間が「無(真理)」になるための「方便」としてであろう。しかし偶像は寧ろ人間が「無」になることを妨げる。何故なら、人間は自分の「実在の責任」を偶像に転嫁するからである。その責任を「無」になって自身に問い、「愛」を生きて果たすことが「絶対の真理」を生きる意味である。「全ての開祖の真意」を一言で言うなら「愛を求めず愛を生きよ」である。彼らは「真理に到達する道はない。自分が絶対の真理であることに気づくために、誰かが作った道を辿って歩くことをやめ、絶対の真理である自身を生きよ」と言っているのである。私は日の出に向かって祝詞を上げるが、私にとって祝詞の奏上は「意識の科学」であり、対象と一つになるための「実験」である。対象とは全宇宙であると同時に宇宙を構成している要素の一つひとつである。その中には私自身も含まれ、足下の土くれに住む無数の微生物もいる。勿論天空の星となった入澤さんも、そこから放たれる彼女の波動も時空を超えて全宇宙を構成する、無限に遍在する諸々の要素の一つである。「八百万の神」は、日本人が、古来そのような意識で生きてきたことを示す概念と言えよう。 川崎尊康
3 愛について書いた作品
『縮小社会 第5号 2020 3月号』「愛の色彩と霊的進化-印象派の芸術が示したもの- /川崎尊康」p303
4 動的真理
川崎の造語 本文中に記載 p131 LL41
5 純粋意識
参考文献『文芸日女道 644 号2021 12月号』「四聖諦と釈迦の哲学モデルの作成 /元田武彦」
対象を客観的に捉えるのではなく、直観的に把握しようとする意識、またはその衝動。他者(客体)と一つになることによって、主客の区別を無くそうとする衝動。或いは世界の部分である自分が世界と一つになる(全体を包摂する)ことによって、自身に世界(全体)を見出そうとする衝動、またはその衝動が生む直観。 川崎尊康
6 「無」と整合する概念
仏教で言う「無」は、「愛で満ちた心と解釈するべきである」という川崎の持論を論拠とする。「無」と「愛」が相互に相互を示す同義語と捉えれば、それらは相互を補完することによって、其々の本質を明確にし、現実の社会に於ける相互の実効性を高め合う。「無」は、高次元文明を築く心の原点となり、軽率な意味が 払拭された「愛」は、我々が、人、社会、自然、そして「命」について考える時、その思考の根拠を問う働きを発生する。 川崎尊康
7 欲望の世界
強いエネルギーで現代文明を支配しいる「欲望の思考」を「愛の思考」に変換することは容易なことではない。しかしそれができれば人類は未来を待たずに理想の文明社会を現代に実現できるだろう。何故なら「支配と独占」のために使われていた果てしない欲望のエネルギーが「命の調和」を探求する「愛の思考」に収斂するからである。欲望は「独占や支配に執着するエネルギー」であるが、「欲望から愛への変換」は、人が「絶対の真理」を生きることによって可能になる。私は、人があらゆる呪縛から自分の意識を解放し、真に自由な実在となることを、「霊的進化」と呼んでいるが、現代文明の抱える問題は「霊的進化」によってその殆どが解決すると考えている。 川崎尊康
8 霊的進化
参考文献『縮小社会 第6号 2022 3月号』「人類を霊的進化に導く抽象絵画」川崎尊康

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